「え?」

「馬鹿かお前は!」

やけにドスの聞いた怒声が飛ぶ。
同時に平手が剣心の左頬を打った。
とっさのことでなんの心構えもできていなかった剣心は、驚いて女を見つめる。

「あなた、そんなふうにあの娘のこと見てたの?」

女の形相がみるみる変わっていく。言葉遣いまでが一変し、先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこかに吹っ飛んでしまっていた。

「い、いや、あの……」

いきなり怒鳴られて剣心は慌てたが、女の続く言葉に凍りついた。

「幸せにする自信がない? じゃあなんで期待をもたせるような態度をとるの。そりゃアナタはいいでしょうよ。いざとなれば何もかも見捨てて逃げればいい。今までそうやって生きてきたのですもの。簡単よね。失うものなんてなにもないから、捨てていくのは得意でしょうよ」

「拙者は! だれも見捨ててなど行かない……」

女の怒気に押されながらも発せられた言葉は、自分でもわかるくらい力がなかった。

「どこが? 現に今、あなたはあの娘から逃げているじゃない。まだ年端もいかない小娘の気持ちから逃げているでしょう。人々を救う? 笑わせるんじゃないわよ。娘一人救えないような情けない男に、誰を救う力があるっていうのさ」

(わかっている……)

「……」

「嫌いなら嫌いと言えばいい。」

「……っ」

「好きならそう伝えればいい。」

「拙者は……」

「あなたはね、受け取りもしないけど拒絶もしない、迷惑と言わない変わりに嬉しいとも言わない。いついなくなるかもわからない流浪人に、想いを伝えることがどんなに勇気がいることだったか、考えたことある? あの娘がなにも考えていないとでも思ってるの!」

(そんなことわかっている……)

「嫌いとは言わない、でも好きとも言わない。そんな中途半端のまま自分だけ甘えて、あの娘が辛くないとでも? あの娘の悲鳴にすら気づかずにいたというの!」

(わかっているからこそ!)

剣心の感情が溢れ出した。
わずかに項垂れていた顔を上げ、拳を握り締める。
きつい視線で女性を見返すと、一気にまくし立てる。

「気づいていた! ……だが拙者にあの純粋な想いを受け取る資格がどこにある。拙者は今まで殺してきた人たちの血と怨念で穢れている。この罪は、決して拭うことなどできぬ。その拙者が、あの無垢な魂に触れることなど許されようかっ。ただでさえっ……拙者が側にいるせいで、何度も危険な目にあわせた。一度ならず二度までも死なせかけた! これからだって……拙者がいれば同じような目にあうかもわからない!」

それなのに側にいたいなどとは、どうしても言えなかった。

(俺は、どうすればいい……?)

危険な目に遭わせたくない。もし、また守りきることができなかったら……

(でも……)

「なら、また出て行けば?」

 そんな剣心の葛藤を知ってか知らずか、冷たい眼で女性は剣心を見返す。
 まるで、それがどうしたのかと言わんがばかりの態度だ。

「! ……っ」

女性の言葉に剣心が震える。
人から突きつけられる言葉は、自分のそれより切っ先が鋭い。

「そう思うのなら出てゆけばいいでしょう。」

「…………承知……している……」

声が震える。
感情を抑えることは得意なはずなのに、なぜかこの女性の前ではそれができない。

「なら、なぜ動かないの?」

「……」

剣心は答えない。
いや、答えられない。

「離れたくないからでしょう?」

「……」

「違うの?」

「……」

「違うの?」

「……その……通り……でござる」

搾り出すように剣心は言った。拳が硬く握られる。
気づいていても、認めたくなかった自分の想い。
認めれば己を抑えられなくなってしまう。
彼女の側から離れるなど、離れて生きていくなど、できるわけがない。
自分は知ってしまったのだ、あの暖かい温もりを、包み込んでくれる優しさを。
どんなに危険なこととわかっていても、彼女を苦しめてしまうとわかっていても、離れるなど……できるわけがない。

「アナタは、あの娘を幸せにする自信がないんじゃなくて、自分が傷つくのが怖いのよ。一度手に入れたものを、失うことが怖いから、グダグダ言い訳して、逃げてるんじゃないの。」

「ぁ……」

剣心から驚きの声が漏れた。自分でも気がつかずにいた恐怖。
心の底で願っていた。離れたくないと思う気持ちと同じくらいの強さでずっと。
今のうちに薫殿の方から去っていってくれないかと。
愛想を尽かされてしまうことを願っていた。
彼女から離れていくのなら、しかたがないと思って、どんなに辛くともきっと耐えられると思う。
そして藍色のリボン、風鈴の澄んだ音色、夏の蛍、あの燃えるように赤い夕日・・・ことあるごとに彼女を思い出しては、苦しく、でもなによりも幸せな夢に酔うだろう。
日本中を流浪れ、生涯を終えるその日まで。
自分のものでなければ、彼女を失っても耐えられる。
けれど、一度手にしてしまったら。
失うことは……きっと耐えられない。

(怖いんだ…)

今度こそ本当に狂ってしまうだろう。
だから、今のうちに……
その手を取らなければ、自分は傷つかずにすむと。

「アナタはあの娘を捨てても平気でしょうよ。死んだ前妻の亡霊と、わずかな思い出だけで十年間もうじうじしてこれたんだから。でもね、あの娘は『今』を生きているし、アナタが側にいようといまいと、あの娘もいつかは死ぬのよ。」

死ぬ。という言葉に、剣心はビクッと震え、驚きの表情で女性を見た。
まるで信じられないというように。

「薫殿が……死ぬ……」

自分がいてもいなくても、いつか彼女の存在は消える……
永遠なんてないから。
誰もが必ずいつかは死ぬ。
不平等が当たり前の世の中で、死だけは。
それだけは、全ての人に平等に訪れる。
逃れることはできない。
それは誰よりも剣心自身が知っていることなのに、剣心は動揺した。
普段の彼女にはあまりにもそぐわなくて。
だからこそ縁との私闘の時、貫かれた彼女を見て正気でいられなくて。
今は元気な彼女を見ても、あの時の姿を思い出すと胸が痛くて。
いつか、いつかまた、彼女が自分のせいで冷たくなってしまうのが怖くて。
少しでもそんな危険から遠ざけたくて。
その為には自分は側にいてはならないと、そう思ってきたのに。
自分が傷つきたくないのは本当で、でも彼女を危険から遠ざけたいという気持ちも本当。
それが、自分の心を守る為の自己防衛からくるものでも、彼女には生きていて欲しいと思う。
彼女が幸せに笑っていてくれるなら、それが自分の隣でではなくても耐えてみせる。
けれど、彼女が死んでしまうことは、それだけは耐えられない。

「拙者がいなくても……」

彼女が消える日がくる。
では、なんのために自分は去らねばならぬのか……。

「当たり前でしょう? 人間は屋根から落ちてきた瓦に頭ぶつけても死ぬのよ。誰が守ろうが側にいようがいまいが、これだけは変わらないわ。たとえばそれは自分の満足のいく死に方であるかもしれないし、そうでないかもしれない。自分の死ぬ場所と時を選べる人はそうはいないのだから。」

背をピンと伸ばし、女性は剣心を見つめ返す。
それは、逸らす事を、逃げる事を許さない厳しい視線で剣心をその場に縫いとめる。

「いつか死ぬなら、いつ死ぬかなんて問題じゃない。その人が生きている時幸せだと、悔いはないと思える生き方ができたかどうかが重要なのよ」

まっすぐ剣心を見つめる女の瞳にはもう怒りの色はなくて。
清らかさすら感じるその瞳に、剣心は彼女を思い出す。
いつも真っ直ぐに自分を見つめたあの瞳。
人斬りの自分を恐れることなく、挑むように強い視線で。
迷うことなく自分を見つめる彼女。
正直、その視線が痛いと思うこともあった。
彼女の視線は、その心と同じで真っ直ぐすぎて。
何もかも見透かされているような気分になるから。
自分の汚れきった部分さえも見られているようで、その視線から逃れたいと思うこともあった。
でも彼女は、そんな汚い自分さえも認めてくれて、あまつさえ穢れのない白い手を差し伸べてくれた。


―――変わらないものなどない世の中で―――
―――けど、私は剣心と一緒にいたい―――


それでも……一緒に……
何も言わない剣心に、溜息混じりに女性が言う。

「始めの質問に戻るわ。アナタ、あの娘の幸せってなにかわかっているの?」

「薫殿の……幸せ……」


―――私は剣心と一緒にいたい―――


一緒にいたいと言った彼女。
彼女の為に、自分の為に一緒にいてはいけないと思った自分。
でも……でも本当に彼女のことを想うなら。
いつかは消え逝く命。
その「いつか」を自分で選べないのであれば、「いつか」がくることに怯え、辛い未来を選ぶより、幸せな「今」を掴みたいと。
どんな辛い目にあおうとも、命尽きるその日まで。
幸せだと、彼女が思ってくれるのであれば。
その為に自分ができることは全てしたい。
自分と彼女の望みが同じなら、二人で叶えればいいことで。
(薫殿も、同じように思ってくれるだろうか)
剣心の心から迷いが薄れていく。
迷うだけでは先に進めない。
進まなければ失うことはあっても、得られるものはないのだ。
進んだことで失うものがあっても、進まずにただ失っていくよりはマシかもしれない。

「……かたじけない」

剣心は深々と頭を下げた。

「拙者、やはり薫殿を誰にも渡す気になどなれないでござるよ」

そう言って目の前の女性を見る。その瞳には強い意思が伺えて、その人は何も言わなかった。
代わりに、見慣れているような、けれど力強い笑みが返される。

「失礼するでござる」

最後にまた深く頭を下げると、剣心は踵を返し河原から立ち去った。








:前:  :次:




その三。まだ続きます。