「けーんしん!」

夕暮れに染まる河原沿いの道を剣心が歩いていると、前方から薫の姿が見えた。
小走りに近寄ってくる愛らしい姿。
きっと、今まで探していてくれたに違いない。

「もー、どこいってたのよっ。いつまでも帰らないから心配したじゃないの」

少し不安げな面差しで、不貞腐れて言う彼女を、本当に愛しいと思う。
自分の正面に立ちはだかるようにして立つ彼女を抱きしめてしまいたい。

「やっぱり……訂正」

「え?」

手放せるわけがない。
たとえ彼女が自分と一緒にいない方が幸せになれるとしても、他の男のものになるなんて、耐えられるわけがない。

「拙者は……情けないでござるよ」

そう言って、わけがわからない薫に優しく微笑む。
なぜ、耐えられると思ったのだろう。
自分はこんなにも欲張りなのに。
彼女の為だとわかっていても、諦められるわけがない。
そんな簡単なことに気が付かなかった。
そしてその愚鈍さが、自分だけでなく彼女をも苦しめていたのだ。

「ねえ、なにが?」

黙り込んでしまった剣心の顔を薫が覗き込む。
その瞳はまっすぐで、真剣そのもの。
夕焼けの紅色を反射して、いつもより赤く美しく輝いて見える。
それは、先ほどの女性の眼差しに似て。
何かが重なった。

(ああ……そうだったのか)

剣心は、ようやくそこで気が付いて、またも自分の愚鈍さに今度はおかしくなった。
思わず声に出して笑ってしまう。

「くっ……ふはっ……ははは」

本当に、なんて鈍さなんだ。
なぜおかしいと思わなかったのか。
あの女性が誰なのかと、なぜ疑問に思わなかったのか。
なぜあんなにも自分の言葉に怒ったのかを。
あの女性のペースに巻き込まれ、今まで気づきもしなかった。

「本当に拙者は……情けない男でござるな」

いつも、誰かに背中を押されなければ歩き出せない。
しかも今度は……

「ねえ! 剣心ったら!」

黙り込んだと思ったら急に笑い出した剣心に、薫の苛立ちが頂点に達する。
歩きながらも拳を振り上げそうな勢いだ。
それが、剣心にはついさっき味わった左頬の痛みと交差して、考察は確信に変わる。

「はは……薫殿」

「なによ!」

怒って顔を真っ赤にしている薫に、剣心は極上の笑みを向ける。
そして有無を言わさず自分の腕の中に収めた。
突然のことに薫の体は硬直したが、剣心はかまわずきつく抱きしめた。

「っ! ……け、ん」

「薫殿」

焦る薫の反応が可愛くて、剣心はクスクス笑いながら耳元で囁く。
もう二度と触れることはできない。
そう覚悟して手を伸ばしたあの時の抱擁と比べて、なんと心地よいことか。

(二度と離さない。例え彼女を不幸にしても)

自分勝手な想いと知りつつも、もう止めることなどできない。

(結局俺は、そういう男なんだ)

なぜ自分は綺麗であろうとしたのか、それは彼女の為だ。
彼女に嫌われたくなくて、軽蔑されるのが嫌で、自分のこんな汚い部分を否定していた。
自分勝手な想いで、彼女を汚したくないと、その為には自分は綺麗なフリをしていなくてはいけないと、無意識に考えていた。

(でも、それももう、どうでもいい。)


―――君を地獄に堕としても・・・…


(俺のものになるのなら、あとはどうでもいい)

認めてしまえばこんなに楽なのだ。
なにを迷っていたのか、ばかばかしくなるくらいに。
我ながら変わり身の早さには呆れるほどだけれど。

「帰ったら……話したいことがあるでござるが」

ここで一呼吸おいて、今度は想いを込めて真剣に。

(それでもいいと、君が言ってくれるなら……)

「どうしても、どうしても聞いて欲しいでござるよ。……薫」

「!」

薫がこれ以上ないというくらい瞳を見開いて剣心を見つめる。

「い、ま……なんて」

知らず声が震えるが、薫はそんなことに気がつく余裕がない。
愛しい人に抱きしめられて、初めて名前を呼ばれた。
それだけで意識が遠のきそうだ。

「聞いてくれるでござるか?」

問う剣心に、薫はただただ頷くしかできない。

「よかった……では、帰ろうか。薫殿」

極上の笑顔は崩さぬまま、自分の腕の中から薫を解放し、でも手は握ったまま歩き始める剣心。
さっきとはまったく別の理由で顔を真っ赤にしながら手を引かれるまま俯いて歩く薫。
頬は、もうほとんど沈んでしまった太陽の残滓よりも紅く、薫は顔を上げる事ができない。
心臓は、今まで出てきたどんな剣術の試合よりも大きく早く鼓動を打ち、収まる様子すらなくて。
期待しちゃいけないと諌める気持ちすら簡単に凌駕して、心を体を震わせた。
二人の路はこれからが始まり。終わりなんて……今は見えない。



まだ残っている夏の風が一陣、まるで頭をなでるように通り過ぎた。







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その四
ここで終わりでもよかったのですが、次におまけと言うかまだちょっとあります。