一目見たその時に

    きっとこの子にはかなわない    .

そう思ったことを覚えている。



けれどその時の私には、そんなことを気にしていられる余裕など全くなくて、とにかく今を逃げ切ることでいっぱいだったから、こんな思いはすぐに消えてなくなった。


でも、今にして思えば、あの時の私の態度には、あの子に対する反発心     というより、そう思ってしまったことに対する反発心     があったように思える。
そしてそれは、その先の私の態度をも決めてしまった。








一日の診察を終えて、やっと自分の部屋に引き上げた時は、もうどっぷりと日が暮れていた。
明かりを灯すと、意識せず溜息がもれる。
当たり前だけれど誰もいない部屋。
もう慣れてしまってなにも思いはしないのに、なぜかたまに寒々しく感じることがある。
これが"寂しい"ということなのかな。
と思ってみたけれど、すぐに頭を振ってその考えを追い払った。
今は、そんな心の隙間を作りたくない。

「疲れたわ・・・」

わざと声を出して言ってみる。
それが自分に対する言い訳だとわかっていても、今は少しだけ、何かに責任転嫁したかった。


確かに今日は忙しかった。
朝から連続して急患が運び込まれ、まるで戦場のような有様だった。
それが一段落してからいつもの往診を済ませ、足りなくなった薬の調合、薬剤の手配、新しい患者の診察、短時間ながら手術まで手がけた。
おかげで昼餉をゆっくり食べる時間などなく、軽く何かをつまんだ記憶はあるけれど、あとは水とお茶を飲んだだけの気がする。
だからどうというわけではないはずなのに、今日は夕方からやけに気分が沈む自分を、自分自身でもてあましていた。

理由はない。とは言えない。
けれど、今日のこのなんともいえない心の揺らぎは、そのことが原因ではないと思う。
だってこれは、自分で選んだことなのだから、今更何も悩むことなどないはずだった。
出した答えに迷いはない。
それまでに考えに考えた末、自分にとって一番いいと思える選択肢を選んだと、これは断言できる。
なのに、自分の中に弱気な自分がいて、機会を見つけては強気な私に囁きかける。


"新しい土地で、本当にやっていけると思っているの?"

"田舎は、都会より偏見が強いというのに、女医だなんて信用してもらえるわけがないわ"

"生き別れの家族なら、東京にいたって探せるじゃない"

"どうしても、私がいかなきゃいけないわけじゃないでしょう? 他にも医者は沢山居るわ"


それは小さな囁きでしかないのに、いつの間にか私のどこかに蓄積されているらしい。
今日のように少しだけ心が弱っている時。
夜中、なんとなしに目が覚めてしまった時、不意におしゃべりを始めて心をかき乱す。

そして最後は、


"本当に、ここを離れていいの?"


と、とどめとばかりにたたみ掛けてくる。


「そういう、問題じゃないのよ」

自分の中の弱い部分に言い聞かせるように、ことさらはっきりと口に出す。
そういう、感情の問題ではない。
いろいろな面を考えて、それで決めた路なのだから。









(大して広くもない部屋に座って、誰も居ないのに独りでおしゃべりしている私は、他の誰かが見ればきっと異常に映るだろうな・・・)

それを思い浮かべて、思わず笑ってしまった。
笑ったことで、少しだけ気持ちが軽くなったのか、帰ってからやろうと思って持ってきていた診療録の束を、片付けてしまおうという気になった。
頭の隅に「空腹」という文字が浮かんだけれど、せっかくやる気になった出鼻を挫かれたくなくて、とりあえず遅めの夕餉は後回しにした。


明かりのほうに向き直り、診療録の束を一枚一枚確認する。
今日、外傷で運ばれてきた患者の中には、しばらく治療を続けなければいけない人もいたから、忘れないようになるべく細かく書き記しておく。
薬の種類を変えた人、快方に向かっている人、逆に悪化している人。
診療所に来る人は千差万別で、同じような症状で来ても、同じ治療が効くとは限らないから、注意はして過ぎるということはない。
だから私は、今日本人と会って自分が気づいたことなども、一緒に書いておくことにしている。
それが役に立つこともあり、立たないこともあり。
それはその時々だった。

今日診た患者さんの症状、様子や世間話の内容など、思い出しながら書いていく。
『先生の古い知り合いのお婆さんに、息子の嫁にならないかと言われた。息子ってもう50過ぎじゃ・・・』
『朝から頭痛が治まらないと言うことなので、いつもの薬に頭痛薬を処方』
『近所の辰さんがまた喧嘩をしたらしい。怪我はたいしたことないと言っていたけど、念のため一度診せにくるよう言伝を頼んだ』

等など、思い出せばきりがない。。
この調子で全部片付けてしまおうと、次の診療録を持ったとたん。
手が、止まった。

そこには、私の人生を変えてくれた、大切な人の症状がこと細かく書いてあった。
身体的特徴、普段の生活、怪我をした日時とその状況、怪我の深刻度、回復具合など。
彼にとって体に負う外傷は、日常茶飯事と言っていいくらいのものだったから、自然診療録の量は多かった。
時系列になっているその"外傷一覧"とも言える厚い診療録を、一枚一枚めくっていく。
外傷以外で彼が医者を頼ることはめったになかったものの、たまに
『風邪のため発熱。かなりの高熱の為解熱剤処方』
とか、
『原因不明の胃痛(おそらく神谷薫の料理による食あたり)のため、胃薬を処方』
とか書いてあるのが面白かった。

そしてごく最近、彼を心身ともに傷つけた出来事と、その後の経過の欄に目を通す。
そこには、何度読み返しても、自分の字ではっきりと、覆せない所見が書かれていた。
今まで彼を診続けて・・・だからこそ到達した医者としての見解を、近いうちに必ず彼に伝えなければならないことを考えると、私の気持ちは深く沈んでしまう。


彼に…緋村剣心に、飛天御剣流の技は、これからどんどん使えなくなっていくだろうと、伝えなければならない私も辛いけれど、おそらくは薄々気づいているであろう彼が、それでもはっきりと告知される衝撃を思うと胸が痛い。
これまでの人生で身につけた、己の体技が使えなくなる不安。
これからも戦い続けていく人生を選んだ彼には、酷すぎる現実。
…きっと表には出さないだろう心中は、察して余りある。


私が治してあげられれば。


何度思ったかわからない。
その為に文献を調べ尽くし、他の医者仲間にもあたってみたけれど、結局は徒労に終わってしまった。
結果出した答えは、今の医学では、彼の症状は治しようがない。
そして、悪化することはあっても、治る可能性は皆無といっていい。
そんな、絶望的なものだった。
この時ほど、自分の無力さを呪ったことはなかった。
医学は万能ではないとわかっていても、この時ほど痛感して、悔し涙を流したことはなかった。
どんなに沢山の人を救えたとしても、自分を救ってくれた、ただ一人の大切な人を救えない。
私にできることといえば、せめてその時が少しでも遅くなるよう、最善の治療を心がけるだけ。
それですら気休めにしかならないことは、よくわかっていたけれど、他に、どうしようもなかった。


「ふぅ・・・」


せっかく浮上しかけた気持ちが、あっさりとまた沈んでしまい、私は諦めて診療録の束を放りだした。
今日はもう仕事になりそうにない。
もう一度盛大な溜息を吐くと共に、すそも気にせず畳の上に寝転んだ。
暗い天井を睨む。
どうかしている。
何故こんなに気持ちが沈むのか、確たる理由は思い浮かばなかった。
なのに根は深く、私の浮上しようとする努力を、ことごとく無視してくれる。

「きっと、疲れているのよ…」

呟いてみても、なんの意味もない。
私は目をつぶった。



治せないのなら、せめて側に居て支えてあげたい。
諦めたはずの想いが甦る。

けれどそれは叶わぬ願いと知っていたから、口に出したことはない。
私にとって剣さんは、恩人以上の、大切な男性であったけれど。
剣さんにとって私は、仲間の一人でしかないとわかっていたから。

彼にとって大切な"女性"と言えるのは、今ではもう薫ちゃんだけで、そこに私が割り込む余地など初めからなかった。
彼のそのあたりの境界線は、温和で優柔不断に見える態度からは予想できないほどはっきりしている。
薫ちゃんを見つめる時の視線一つ、挙動一つとっても、それは他の人     例えば私や操ちゃん     とは全く異質のもので。
たまにこっちが赤面するほど、あからさまなこともある。
気づいていないのは当の本人と、薫ちゃんくらいなものだというのが、私たちの中での共通の意見だった。
だからこそ私は、胸に秘めた想いを打ち明けることさえできずに、半ば八つ当たりのように薫ちゃんに発破をかけて、身を引くしかなかったのだから。


彼が、薫ちゃんに惹かれた理由は、私にだって想像できる。
でもだからこそ、余計に悔しい思いが残るのも事実。
薫ちゃんは・・・彼女は、私がどう努力しても手に入れられないものをもっていて、それに私は敵わない。
屈託のない笑顔一つとっても、私にはできない芸当だと、何度も思い知らされた。
あの、何の不幸も、世間の冷たさも知らないような彼女の笑顔が、小憎らしいと何度思ったかわからない。
けれど、その笑顔を嫌いになれなかったのは、やはり私も、薫ちゃんのそういう部分に救われていたからなんだろう。

そして、そう自分で結論を出したことで、私は負けを認めてしまった。


「あーあー。ついてない」

呟いて目を開ける。
相変わらず部屋の天井は暗い。
そんな当たり前のことにわざとらしく溜息をついた。

「相手が悪いのよね」

私の場合、惚れた相手が悪かったと、自分の男運のなさを嘆くしかない。
薫ちゃんと私を比べて、どこが優れている、劣っているの勝負ではなく。
剣さんにとって恋愛対象は誰か。というのが問題なのだから。
残念ながら、私はその枠にすら入らなかった。
ついていない。としか言いようがない。

「はぁ…」

何回目かわからない溜息が出る。

「私だって、そう捨てたもんじゃないと思うんだけどなぁ」

これでも一応、男性に声をかけられることだってあるのに。
一瞬ですらなびく事のなかった剣さんが恨めしい。
けれどそれが、きっとあの人の優しさでもあるのだろうとわかってもいる。

(可能性のない恋に、期待をもたされるのは何より苦しいもの)

わかっているけど恨めしい。
ちらりと、座卓の上の診療録に目をやる。
その、人よりだいぶ厚い診療録は、医者と患者以上になれない壁のように思えて、いっそ破ってしまおうかという、ふざけた思いがわいてくる。

そんな自滅的な思いを振り払うように、私は勢いをつけて起き上がった。

「あー。やだやだ」

頭を振って馬鹿な考えを笑った。

「…もう片付けちゃおうっと」

今日はもう仕事にならないのなら、この束を片付けなければ明日の朝慌ただしくなってしまう。
そう思って座卓に広がった診療録をまとめる為に手を伸ばす。
処理が終わっているもの、そうでないものをより分けて、何枚かまとめて四隅をそろえた。
すると、別々の束に分けた診療録の、"未処理"に分けた一番上。
今手に持っている剣さんの診療録の、下に控えていたであろう患者の名前が目に留まった。
















恵さん登場。
なんとなく心が沈む日、弱ってしまう日ってありますよね。

長くなってしまったので二つに分けます。