「ぁ…」



今まで完全に忘れていた、その患者さんとの会話などが一瞬で思い起こされて、それでようやく、私は自分の気持ちを理解した。

(あぁ、そういうこと・・・)

安堵のような、諦めのような湿っぽい溜息が肺からもれた。
それと同時に、ポツと剣さんの診療録の上に水滴が一滴だけ落ちた。
慌てて診療録を座卓に戻して自分の頬に触れる。
そこは特に濡れてなどいなかったから、本当に一滴だけ滑り落ちただけなんだろう。
いきなりこぼれた涙に驚きながら、私は彼との会話を思い返していた。

"先生は、強い女性だからなぁ"

それは診察が終わって、他愛もない世間話をしていた時だったと思う。
何のきっかけかがあったか、彼はそんなことを言った。
きっと褒め言葉の意味で使ったのだろうし、その時の私もそう受け取った。
胸にできたわずかなひっかかりと、何かを訴えようとしたか細い声は、だからそのまま無視された。
なのにそのか細い声は、意外な持久力を持って自分自身に訴えていたらしい。
時間が経つごとに私の気持ちは下降し、けれど原因が些細なことだった為に、私は思い出すことができずにいた。

「馬鹿みたい…」

自分自身に笑えた。
私はいったい、何に傷ついたのだろう。
彼に悪気など全くなかったに違いない。
普段から男勝りで、肩で風を切って歩いてるような女への、褒め言葉としては上等ではないか。
確かに私は弱くはないし、周りが私を"強い人"と思っているのは知っている。
そのことを否定する気はないし、その通りだと思ってきた。











なのに、なんで・・・



あの時、悲しいと思ってしまったんだろう・・・

















強いこと、がじゃない。


強いと思われることが、悲しいと思ってしまった。
















「矛盾してるわ…」

こんがらがってきた頭を整理するように、軽く頭を振った。
自分のことながら、わけがわからない。
人に強いと思われることを、悲しいと思う理由なんてない。

強くて当たり前、私は弱ければ生きてこれなかったのだから。
守ってくれる人も、頼れる人もいなかったから、一人で生きるすべを見つけて・・・一人で、生きてきた。
他に、路なんてなかったから・・・
だから、私は普通の町娘のようにすぐ泣いたりしないし、誰かに頼れば何とかしてもらえるだなんて、甘い考えも持ち合わせていない。
強い女と思われて当然だし、そう思われるように振舞っていることも否定しない。


けれど…


でも…

もしも…私に頼れる人がいて
優しく包んでくれる人がいたなら、どんなにいいだろうと



思ったことは、あった。


私も普通の娘のように、家族がいて、友達がいて、好きな人ができたといっては騒ぎ、どうでもいいようなことで笑う日常があったらよかったと、淡い憧れのようなものをもったことは…あったと、思う。

でもそれは、私には手に入らないものだったから、胸の奥にしまいこみ取り出そうとはしなかった。
取り出したところでどうにもならない。
自分の孤独が一層強調されるだけで、なんの益もないとわかっていたから。

そして、それは月日が経つ間に忘れてしまっていた。

もう一度、その患者さんの症状を読み直す。診療録には

『軽い風邪。熱、吐き気などは治まり、順調に回復中。』

とある。
さらに下の方に

『去年結婚したばかりとのこと。今年中に子供が生まれると喜んでいた』

と、書いてあった。
その事を語った時の彼の、これ以上の幸せはないという笑顔が思い出されて、私は微細な嫉妬を覚えたことを思い出した。

(だから、かしらね…)


私の中のどこかの部分で、幸せそうな彼を羨む気持ちがずっとあったのかもしれない。
そんな彼に、私は強い女性だと言われた時、私の中の弱い部分がその裏の意味を感じ取ってしまった。

"あなたは、これからもずっと一人なんでしょうね"

それは、彼の持っている幸せから拒否されたも同然と受け取れた。
私には、普通の幸せなんて手に入らないと言われたような気がした。




そしてそれを、私は否定できなかった・・・




「本当に今日は…どうかしてるわ。私」

診療録を座卓にもどして呟いた。
そんなこと、気にするようなことじゃない。
そして、普段の私なら、本当に気にもしなかっただろう些細なことが、こんなに心を乱すなんて…。

近く、環境が変わることへの不安。
離れがたい人たちとの、決別による寂しさ。
そして、区切りをつけたとはいえ、今でも燻る思慕の念
そういういくつもの要因が重なって、少し弱気になっているのかもしれない。
だから、なにかちょっとしたことに感傷的になってしまう。
それが今日は、彼の言葉だったというだけで…



そう結論を出すと、私は大きく息を吸って立ち上がった。
急いで、そして簡単に身支度を整える。
こんな日は一人でいないほうがいい。
夕食も兼ねてどこかに出かけて、温かいものでも食べて、ちょっと引っ掛けてから喧騒の中に身をおいたほうがいい。
人の目に触れる場所にいたほうが、私はいつもの私を保てることを、経験で知っていた。
それが見得だとか、意地だとか人は言うのかもしれないけれど、齢21になって今更性格なんて変えられない。



明かりを消して部屋を出る。
その、明かりの消える一瞬の間、視界が揺らいだ気がした。
そしてすぐ足元で、またポツと音が聞こえたような気もしたけれど。
今度は何も確かめることなく、玄関を開けて外に出た。
肺いっぱいに夜の空気を吸い込んで、前を見据えて私は歩き出した。







いつもの自分に戻る為に。



















強く見える人だからって、いつも強いわけじゃないと言う話。