「ふぅ……」

ひどい目にあったでござる……って、それは薫殿の方かも知れぬな……反省しよう。
ようやっと落ち着いた呼吸を、それでも慎重に繰り返しながら、拙者は前かがみに俯いていた顔を上げた。
喉の奥が少し痛むが、これくらいならすぐに治る。

「ふぅ……」

もう一度息を大きく吸って、ゆっくり吐く。
特に異常はなしと判断して、改めて部屋の中を見渡した。
拙者の部屋に敷かれた布団。
枕元に置かれた盆と土鍋。
その中に入っている、黒い半液体状の……薫殿曰く、薬膳粥。
そして、畳の上に転がる椀から……こぼれている同じもの。
さらに、敷布の上と畳にも転々と散らばる同じ……
そこまで見て、自分の情けなさに涙が出そうになった。




つい先ほど。
時間差でやってきた攻撃に、思わず粥と言う名のヘドロを噴き出してしまい―――幸い、薫殿の顔に吐き出すことだけは避けたでござる―――そのあと盛大にむせ、さらに気管に入ったのか咳が止まらなくなり、果ては呼吸困難に陥るという大失態を演じてしまったでござる。
その時の薫殿の表情たるや……
今思い出しても、穴があったら入りたいくらいの大失態……
我ながら情けなくて顔を上げられないでござる。


(……ああ、情けない)


そもそも具合が悪いわけではないのに、布団に寝かされて粥を食べさせられるというのが、今更ながら……
などと、言っても仕方がないのでもういいでござるが。
粥を吐き出しただけなら薫殿も怒るだけだったやも知れぬが、その後の呼吸困難状態の拙者が、あまりにも苦しげだったようで……結果として薫殿の心配に更に拍車を掛けてしまったでござる。

「私、玄斎先生呼んでくる!」

と、言うや否や、拙者が止めるのも聞かず―――というか、まだ呼吸困難状態で止めようもなかったのでござるが―――脱兎の勢いで走って行ってしまったでござる。
その行動の速さは感嘆に値すると思うのでござるが……できればその前に拙者の背中をさすってくれたり、掛け布に散らばった粥を片付けてくれたり……いや、これは拙者が吐き出したものなので、触らせるのは酷でござった。や、失礼失礼。


まあ、とにかく。


行動に移す前に、もうちょっと目の前の事をどうにかしてからにして欲しかったと、そこは声を大にして言いたいでござる。
いくら立ち姿が凛としていてかっこいいなと思ったとか、着物姿でそんなに走ったら裾がまくれてしまうでござるよと心配になったとか、でもそんなことも気にならないほど拙者が心配なのかと思ったら、苦しい咳の中でもちょっと胸が温かくなったとかがあったとしても。
目の前の病人(?)を放置してしまうとは、もうちょっと落ち着いて物事を考える癖をつけたほうがのちのちの薫殿のためでござる。
なんて。元凶の拙者が偉そうに言えることではないでござるな……
おかげで、薫殿が玄斎殿を連れて帰ってくる前に、散らばった粥……(でござるよな?) これを綺麗に拭いて片付けておかねばならないでござるよ。
って、これは早めに片付けねばシミになってしまうでござるな。
回想にふけっている場合ではなかったでござる。
拙者は未だ情けない気持ちを引きずりながら、台所に向かった。




「やれやれでござる」

と言っても自業自得なのでござるが……
拙者は濡れた布巾を持って、茶色いひも状になったせんじ薬の成れの果てや、元が白米とは思えない黒く変色した半糊状の物体を、丁寧に拭いて回った。
畳に散らばった分はいいとして、掛け布についてしまった物は、色が色だけに拭くだけでは落ちてくれそうになく、これは洗わないとどうにもなりそうにない。

「これは明日にでも洗ってしまおう」

今日は拙者が具合が悪い事になっているので、諦めるしかない。
拙者は仕方なく汚れた布巾を持って腰を上げた。
はは、それにしても布巾に付いた色を見ても、食べ物の色とは思えないでござるな。

(本当に、薫殿の心配性と早とちりには困ったものでござる)

なんて思いながらも、心配されてかまわれるのはそう悪い気分ではないのでござるが……ただ、もうちょっと距離を開けて欲しいとは思うのでござる。

「本当に……拙者を男だと思っているのでござろうか」

年齢の割にはそっち方面には疎そうな薫殿のことだから、男がどういうものか。なんて知る由もないでござろうが……それでもいい年の男が同居しているこの家で、ああも簡単に近寄ってはまずい事ぐらい、ちょっと考えればわかりそうなものでござるが……

まあ、今までが今までだから、今更。でござるか……
うん。拙者にも問題があったでござるな……

「……はぁぁぁぁぁ」

拙者の溜息は深い。
なにせつい最近まで、ご近所含め、薫殿にはなるべく『男』を感じさせないように、拙者なりにかなり気を使っていたでござる。
なによりも年若い女性の家に男が一人(と子供が一人)変な噂が立っては申し訳ないと、るろう中に身につけた処世術をフルに発揮し、ご近所にも薫殿にも『剣客さん』または『食客さん』ではあっても『いい年の男』ではないよう、気をつけてきた。
おかげで周りから変な目で見られることも少なく(それでも薫殿に懸想している輩にはかなり睨まれたりはしたけれど)、薫殿の身を案じてくれたご近所さんもなんとか丸め込み、今に至るわけで。
だからこその薫殿の距離感なのだろうし、今まではそれが当たり前だったのだから、今になって文句を言うのはお門違いと言うものでござろう。
わかってはいる。
わかっているのでござるが……

(こう……あれでござるな。きっかけが掴めないでござるよな)

 台所に向いながら、気持ちはいろいろな意味で項垂れる一方で。

「はぁ……」

環境も変って拙者の気持ちは抑えがたいところまできてしまっていると言うのに、薫殿の態度に変化はなく。
いや、それですら拙者の勝手な言い分ではあるのだけれど、それでも改めて二人きりと言うこの状況下にあって、薫殿は何も感じないのでござろうか。

(……まさかとは思うが、本当に男として見られていないわけでは……ないでござるよな……?)

いやいや。
さすがにそれはないと……思いたいでござる。
畳を拭いた布巾を台所で洗いながら、一人物思いにふける。

(いやしかし、なにか感じていれば、いきなり人のおでこに触れてきたりしないでござるか……)

 思い至って気持ちが滅入った。

「はぁぁぁ……」

溜息と共に項垂れる三十路手前男の図は、あまり人様には見せられないでござるが……

「はぁぁぁ……」

それだけ、拙者も切羽詰っているのでござる。


まあ、もうバレバレではござるが。
本音を吐露してしまえば、薫殿に触れたい。
もっとそばにいて欲しいし、近くにいて欲しいし、笑っていて欲しいし、その……抱きしめたり、あの……なんていうか、アレでござるよ。
ああ、その……えっとでござるな。
拙者も男ゆえ、その……そばに居られればいい。と言うだけではなんとも。
も、もちろんそれだけでも嬉しいのでござるが、その先のもっと……ええと……


とにかく!


今のような、前と変らないままというのは、受け入れがたく、かといってどうやってそこを変えていけばいいのかの取っ掛かりが見つからずに、毎日悶々としている。
というのが現状でござる……
それというのも、薫殿の態度があまりにも今までと変らず、そのような雰囲気に持っていきづらいというのがあって。
拙者もそういうことに慣れている訳ではないので、つい次の機会でいいかと身を引いてしまって、それの繰り返しで全く進展がない。
この頃は毎日、布団に入る前に一人反省会の日々でござる。
そして寝る前に『明日こそはっ』と意気込むのでござるが、いざ薫殿が前にいると、どうもうまくいかず……
結局また反省会……


ああ、情けない……


こう……薫殿に少しは察して欲しいと思ってしまうのは、拙者の我侭でござろうか……

(……なんとも、贅沢な悩みだとは思うのでござるがな……)

この間までの戦いの日々から考えれば、なんとも贅沢でこそばゆい悩みではある。
けれど、意識すればするほど、薫殿の前ではうまく話せなくなって。
もっと笑って欲しいのに、拙者は面白いことの一つも言えないし、変なことを言って幻滅されたくないだとか、年長者ゆえの見栄みたいなものもあって、考えるとどんどん無口になってしまう。
前はもっと自然に話すことができて、周りからは『すでに熟年夫婦のようだ』などとからかわれたくらいなのに、今ではその面影はなく、食事の時など拙者は緊張しっぱなしで、会話も薫殿に相槌を打つのがやっと。
薫殿の目を真っ直ぐに見つめるのさえ、ドキドキして視線を逸らせてしまうほどでござる。
そのくせもっと見つめていたくて、横顔をちらちらと盗み見ては、ああ今日も可愛いなとか、拙者の作った煮物を頬張る姿はとても愛らしいなとか、一人で悦に入っているのだから困る。


……まだ何も始まっていないくせに。


ああ、もうどうしようもない。

「好きなんだ」

 握った布巾に呟いてしまうほど。
こうやって、誰もいないところで口にするのは簡単なのに。
薫殿を前にすると、何もできない。
こんな意気地なしの自分を何とかしたい。
そう、思ってはいるけれど。
洗い桶に張った水に浮かぶ、冴えない自分の顔に浮かぶ苦笑。
まさか、こんな年になって人を好きになるなんて、誰より拙者自身が驚いている。
そばに居るのに切なくて
ずっと見ていたいのに、見つめ返されると苦しい。
いつも視界に入っていないと落ち着かないのに、振り向かれると視線を合わせられない。
そんな感情を恋と呼ぶのだと、昔同士の誰かが言っていたのを思い出す。
あの頃の拙者には、そんなことわからなかったけれど。

「わかってしまうと、辛いでござる……」

好きで、だからこそ辛くて。
笑顔が可愛いと思えば、ほかの誰にも見せたくなくて。
なのに、拙者しか知らない薫殿の表情や仕草を、誰かに自慢したくてしかたがない。
相反する心に、拙者自身が翻弄される。


本当はもっと触れたい。
その唇を奪ってしまいたい。
普段見ている表情とは違うものを、暴いてみたい。
拙者しか見ることのない、艶めいた表情をさせてみたい。
それは、男の欲でしかないのかもしれないけれど。

「薫殿……」

どうすれば、拙者のものになってくれる……?




「剣心! 玄斎先生を連れてきたわ!」

玄関の戸を勢いよく開ける音と共に、家中に響く大きな声。
その声に、拙者は我に返った。
慌てて布巾を絞って干し、自分の部屋に向かう。
なにせ拙者は、本日体調不良で寝込んでいる身。
台所で後片付けをしていたなんて、薫殿にばれたらどれだけ怒られる事やら……いや、まあ……薫殿が原因なのでござるが、そんなこと言えやしない。
とにかく薫殿より先に自室に戻ると、急いで布団に潜りこんだ。
ほんのわずかの差で、部屋の障子が開かれる。

「剣心!」

「な、なんでござる……」

いかにも寝ていました。という風に、頭だけあげて薫殿を見る。


我ながら名演技!


夕日を背にした薫殿の表情はわからなかったけれど、その肩の上がり具合と、息の荒さから、本当に駆けて玄斎殿を呼びに行ってくれたのだとわかった。
じん。と胸の奥が熱くなる。

「これ……薫……ちゃん……病人の部屋……にそん……なに勢い……よく押しかけちゃ……いかん……よ」

その後ろから、小柄な玄斎殿が顔を覗かせた。
息も絶えだえなのは、薫殿に引っ張ってこられたからでござろう。
拙者より玄斎殿の身が案じられるでござるが……

「いや……とにかく……」

ゼーハー言っているでござるが、本当に大丈夫でござろうか……

「あ……ご、ごめんなさい。私ったら……」

薫殿は自分の行動をようやっと思い返してくれたのか、急に恥ずかしそうに両手で頬を押さえた。
……可愛いな。
これで、逆光でなければ、恥じらっているだろう表情や、赤く染まった頬も堪能できたのにと思うと、ありがたいお天道様でも恨めしく思えてしまう。
本当に、自分勝手でござるな拙者は。

「どれ。緋村君……風邪を引いたとか言う話じゃが?」

なんとか息を整えた玄斎殿が薫殿を追い越し、拙者の枕元に腰を下ろした。

「あ、いや……」

ここにきて困ってしまった拙者は、相当抜けているのでござろう。
とりあえず上体を起こしたものの、言葉を繋げずに困ってしまう。

(玄斎殿が来たら、何と言うか考えていなかったでござる)

当然ながら医者に仮病は通じない。
かといって、玄斎殿を連れてきてくれた薫殿の前で、実はなんともなくて、薫殿の早とちりだとは言い出せない。

(これは弱ったでござるな……)

どうしたものかと思案していると、玄斎殿は手馴れた手つきで診察を始めた。

「どれどれ、失礼しますよ」

そう言って玄斎殿が、拙者の額に乾いた手を乗せる。

「うむ……熱はないようじゃが……喉の方はどうですかな」

次は喉の横、耳の後ろ辺りに手を当てて、探るように指を動かす。
あー、いや。身体はいたって健康でござる。健康すぎて少々困るくらいでござる。
と言えたらいいのでござるが……
されるがままになっていると、心配そうな顔をした薫殿が、玄斎殿の横に座った。

「さっきは、食べたお粥を吐き出してしまって……その後もずっと咳を……」

なるほど、薫殿にはそう見えていたのでござるか……って嘘ではないがそれはちと勘違いというか、原因は薫殿の発言にあったとか、少しも思っていないのでござるな。


……この鈍さが薫殿でござるが……


「ふぅむ……扁桃腺にも腫れはなし。じゃな」

探っていた指が離れ、代わりにその指は玄斎殿の顎に触れた。
何かを考えるように、そのまま髭を撫でる。

「念のため、口の中を拝見しますよ。ホレ、口を大きく開けて」

診てもらっても無駄だとわっていても、逆らうことができず、素直に口を開け、喉の奥のほうを覗かれる。

(玄斎殿……本当に申し訳ない……)

忙しい身でありながら、こんな事に付き合わせてしまって。と申し訳なさでいっぱいになる。
しかも、かなりの勢いで引っ張り出されたのでござろう……診察する玄斎殿の顔に、まだ汗が滲んでいた。

「喉にも腫れはないようですな……心配はいらんじゃろ」

「本当ですかっ?」

玄斎殿の言葉に、拙者よりも早く反応したのは薫殿だった。


いや、だって拙者どこも悪くないでござるし……


「だって、私が作ったお粥を吐き出したんですよ! そんなこと一度もなかったのにっ。なにもないわけがないです!」

勢い込んで話す薫殿に、玄斎殿がまあまあと困惑顔で宥める。

「薫ちゃん落ち着いて。何もワシは緋村君が元気だと言っているわけじゃあないじゃろ」

「だって、だって…・・・もし剣心が未知の病気だったりしたら、私……」

 これは胸にじんときた。
わずかに瞳を潤ませ、玄斎殿に食って掛かる薫殿を間近で見て、心を動かさない男がいるなら会ってみたいでござる。
そう、たとえ……たとえその手が玄斎殿の胸ぐらを掴んでいたとしても、それとこれとは別でござる。

「薫殿……」

 思わず拳を握った。
そんなに心配してくれていたのかと、胸が熱くなる。
心の臓の鼓動が早くなって、ドンドンと胸の骨を内側から叩く音が響く。

(薫殿……)

そんな薫殿を、これまた冷静な玄斎殿が押しとどめた。

「いや、だから薫ちゃん。緋村君は確かに病にかかっているようではあるが……まあ、そう心配するようなことじゃない。と言っているんじゃよ」

そう言って、思わせぶりに拙者に視線を移した。

(えっ……)

……うそでござろう?
まさかまさかまさか。


バレたっ?


一気に血が顔に上る。

「け、剣心っ! 大丈夫?」

薫殿の慌てた声も遠くに聞こえるほど、拙者は赤面してしまい、それを少しでも隠したくて俯く事しかできなかった。

(な、な、な……何故っ?)

誰にもバレていないと思っていたこの想いが、久しぶりに会った玄斎殿にわかるはずがない。
落ち着けと諌める冷静な自分と、あの顔は絶対気づいている顔だと、慌てる自分がいる。

「剣心! ……先生! 剣心はいったいどんな重い病なんですかっ!」

薫殿が殴りかからんばかりの勢いで玄斎殿に詰め寄る。
今度は両手で玄斎殿を締め上げているが、本人はそのことに気づいていない様子で、ブンブンと腕を振り回すたびに玄斎殿の頭がカクカクと揺れる。
ああ……年頃の女性が、そんな暴力的ではいかんでござる。とか、止める余裕も今の拙者にはない。

(まさかまさかまさか)

頭はこれ一色で、他に何も考えられない。


―――しのぶれど 色に出でにけり わが恋は
   ものや思ふと 人の問ふまで―――


なんてのんきに詠っている場合ではないでござる!
そんな、一目でわかってしまうほど、拙者の態度はあからさまだったでござろうか。
それとも、玄斎殿が特別鋭いのか……
いやいや……いくらなんでも、拙者が心の動きを簡単に人に悟らせるなど、あるわけがないでござる。
玄斎殿のあの表情には、きっと何か別の意図があるのでござる。


(と思いたい……)


なんて一人でグルグルしている拙者の横で、やっぱり冷静な玄斎殿は言った。

「まあまあ。とりあえず薫ちゃんも落ち着いて」

「だ、だって……」

うるうると潤む瞳。
その瞳で見つめられたら、拙者なら押し倒してしまいそうでござる……なんて、今はそんな場合じゃない!
玄斎殿が万一『緋村君は恋の病にかかっているから、医者の薬なんて効かない』なんて言い出したら、拙者はどうすればよいのか……
想像して冷や汗が噴き出した。
よりにもよって薫殿の前でなど、死んだ方がマシでござる。
俯いたまま掛け布握り締める。

(まさか、まさか……)

バレていない。という思いと、たとえバレていても、ここでは言わないでほしいという願いで、体中が耳になったように玄斎殿の言葉を待った。

「緋村君は、ちょっとした疲労で体力が落ちているだけじゃろうよ。一日ゆっくりしていればじきによくなるじゃろうから、そんなに心配しなくても大丈夫じゃ」

からからと笑って薫殿を押し戻した。
その言葉に、薫殿も、拙者も安堵の息を吐く。

(よ、よかった……)

安堵のあまり、布団に突っ伏してしまいそうになるのをこらえる。
体中から冷や汗が噴出していたけれど、緊張が解かれると同時に、今度は筋肉に痛みが走った。
きつく握りすぎた指が、白くなって限界を訴えている。拙者は二人に気づかれないようゆっくりと息を吐くと、指にこめられた力を抜く。

(いたた……)

それでも、バレていなかったという安堵の気持ちが大きい。
ああ、本当によかった……

「まあ、そんなわけじゃから、心配はいらんが……そうじゃな……念のため滋養の薬を処方しておこう。悪いが薫ちゃん、白湯をお願いできるかな」

「あっ。は、はい。すぐにお湯を沸かしてきます」

薫殿も安堵の反動か、少しだけ放心していたらしい。
声を掛けられて慌てて腰を浮かす。

「あ、ゆっくりでよいから、舌にちょうどいい塩梅で頼みますよ」

「も、もう! 白湯くらいちゃんとできます!」

くつくつと笑う玄斎殿に、薫殿が赤くなって文句を言いながら、台所に早足で向かって行った。


……薫殿……障子、閉め忘れているでござる……


(やれやれ。そういうところはまだ子供だな)

一つの事に集中すると、ほかが疎かになる。そんなところはやっぱりまだ少女の域だ。
薫殿のそういう部分を見つけ、少し安心している自分もいる。
まだ焦る必要はないのではないかと、拙者は性急過ぎではないかと、踏み出せないでいる自分をわずかに慰めることができるから。


(そういうところを見つけるたびに、焦らなくてもいいかな……なんて思ってしまうのでござるよ)


けれど、この老獪な狸爺はそんなに甘くはなかった。

「さて、緋村君」

薫殿の足音が完全に聞こえなくなったのを確かめて、ご丁寧に障子まで閉めに行った後。
おもむろに座りなおした玄斎殿の表情は……これまた、いたずら好きの小僧のような……もしくは獲物を捕らえた猫のような……どちらにせよ捕まった方はもう逃げる道は残されていない事を悟るには十分な笑顔で、言った。


「恋の病はどんな妙薬も効きはせぬが……」


その言葉に、拙者はまたしても全身を硬直させた。

「なっ……」

拙者は驚いた顔の形を取り繕う事もできずに、玄斎殿を見つめる。

(なっ……なっ……)

安堵した後の攻撃は、ちょっと前に薫殿にもくらっているけれど、破壊力はこちらの方が上だった。
なんせ、誤魔化しようがない上に、逃げ道もない。

「薫ちゃんが戻ってくるまでには、まだちょっと時間もあることじゃし……ここはゆっくりとお聞かせ願いたいもんじゃ」

拙者のことなどお構いなしに、面白そうにからからと笑う玄斎殿は、拙者の顔を見て、さらにニタリ。と笑みを深めた。























変態路線から脱却